和海悠の『Passing through a Tunnel』〜方向性模索中〜

和海悠(かずみゆう)の好きな音楽、創作、IT、最近の興味と自分の気づいたことをダダ漏れに発信中。

「支援したがる若者」に違和を感じる。

就活サークルにお世話になった時代がある。

自分に自信がなかった大学時代の僕にとって、その人たちは輝いて見えた。
有名大手企業が採用した人材、きっと内側に光るものがあって、それが外側にうまく出したからこそ評価されたのだろう、と。
たくさんの友人に囲まれて、楽しそうな充実しているような人たちに惹かれた。
その人と話すだけで、自分に価値が生まれたような気がした。
その人からアドバイスされたような人生を送ってみようと思ったし、その人たちのアドバイスを基にエントリーシートを書いたり面接を受けたり。

その結果、たーっくさんの行きたい(と思っていた)企業からお祈りされて、人よりも就職活動に時間がかかった僕がいました。

今になって解ります。そんな実際に社会に出たことのない内定者に何が解るんだと。
さて、僕にアドバイスをくれたその人たちは今どうしているのだろう?
その時、僕が思ったようなカッコイイ社会人になっているんだろうか?

「支援」という言葉から感じる上から目線。

人は「支援」をしたがる。例えば、上記の学生団体含めて「リーダー育成支援」がしたい大学生たち。
そして、今勤めている企業も「支援」をする企業ではあるものの、そのあり方には疑問を持つ部分があります。
支援とは、「かわいそうな」人を「助けてやる」行為として、弱者を救うために手を伸ばす、一種の優越感の塊ではないかと。
支援したいなら、自分がまずは本当にその土壌に乗っているのか、そこから考える必要があって、別に行動が伴っていなかったり口だけ出してくる人なんてまったく求めていないのではないか。
「リーダー育成支援」がしたいなら、まずは自分がリーダーになればいいじゃん!って思う。もちろん、それを理解しての意見ならいいのだけれど。
(なんかたくさんの団体を敵にまわすような発言だなぁ…)

本当に大切な支援のあり方って何だろう?

支援自体を否定するわけではないけれど、ただそれは相手ありきの話であるということが言いたい。そこを理解しないまま「こうすればいい」という価値観を押し付けるのは違うのではないか?それは支援ではなく、傲慢だ。

支援している(と思っている)人は、誰かに褒められたいのかもしれないけれど、そんなHow to本をまとめたような話を誰も聞きたいとは思っていないんです、結局それを話したあなたは何も助けてくれないんでしょ?って、そう思われた時点でそれは支援ではない。

アクションを起こさせたいなら、まずは自分がそこでアクションを起こして、仲間を募ること。そこからしか何も始まらない。これが今の僕の持論。就活支援したい学生たちよ、そんなことする暇があるなら、もっと自分のために時間を使いなさいって言いたい。人のためになんて都合のいい言葉で自分を誤魔化していないで。